合唱団グリーン・リーヴスと私

私が明治学院大学Ⅱ部社会学部に入学したのは、1972年でした。
当時は70年安保の学生運動の流れがまだ尾を引き、女子高出身の私にとっては校内に男子がいるというだけでワクワクしていたのに、正門には大きな立て看板、グリーンホール(当時の学生会館)の前ではヘルメット姿の学生がハンドマイク片手にアジ演説の毎日で、そんな中をなるべく足早に通り過ぎようと、ちょっとドキドキしていたものでした。

入学してすぐにはなかなか良いサークルに巡り合わなかったのですが、秋ごろになり、当時の6号館前で部員勧誘のためにコーラスをしていた一団を見かけ、その清々しい歌声にひかれて入部したのでした。
その頃の常任指揮者は、当時パイプオルガニストだった園部順夫先生。(合唱をしている写真の後列右端)真面目な風貌にもかかわらず、情熱的なパフォーマンスで指揮をなさる先生でした。新人の私は園部先生に発声を聞いてもらってパートを決めるときに、「うーん、どこでもいい!」と言われたので、自分で第一ソプラノに決めました。元来、目立ちたがり屋なのでね。

グリーン・リーヴスのレパートリーは、主に邦人作品の合唱組曲であったり小品集、宗教曲や黒人霊歌、海外のポピュラーソングやシャンソンなどと、幅広いものでしたが、私が一番印象に残っているのは、園部先生が日本語の歌詞を付けたヘンデルのメサイアをOBと合同で50人近くのメンバーで、オルガンとピアノの伴奏で歌い、私もソロを受け持ったことでした。ところが、大事な演奏会を控えて喉の調子がおかしくなり、回復しないまま当日を迎え、私のソロは惨憺たる結果になってしまったのです。ショックで落ち込む私に、メンバーは誰一人もそのことに触れず、普段と変わらず接してくれたのです。

グリーン・リーヴスはとても居心地の良い、アットホームなサークルでした。特に男性方は皆紳士で、女性もおとなしい人が多かったように思います。私は兄が3人もいる粗野な環境で育ったせいか、女子高出身ではあるけれど、リーヴスの女性の中ではちょっとお転婆な方だったかもしれません。
Ⅱ部では学生の自治団体としてサークル協議会と言う組織があり、73年度の新執行部の構成員を決めるにあたり、我がグリーン・リーヴスにも声がかかりました。「誰がやるか」と言う話になったところで、私は自分で手を上げていて、みんなに驚かれ、反対の声もある中で自ら強引に執行部員になりました。そのとき何がしたかったのか、いまだに自分でもよくわかりませんが、大学と言う場所で、今しかできない体験をしたかったのでしょう。しかしその年、学校側が学費の値上げを決定し、Ⅱ部サークル協議会はそれに反対する学生たちとともに100番教室(当時チャペルとヘボン館の間に有った)で、学院長・学長・学生部長との団体交渉を行ったのです。Ⅰ部の学生も少しはいましたが、100番教室は自分で働いて学費を納入しているⅡ部の学生でほとんど埋まり、団交は26時間に及びました。意見を言いたい人が順番に発言し、学校側も冷静に対応して、経理面などに詳しい社会人でもある学生の話をよく聞いてくれたと思います。しかしその後学校はロックアウトされ、結局学費は値上げされ、私たちは虚しさを感じながらも、大人になってきたわけです。

その後私はグリーン・リーヴスの活動を行いながら1年遅れで大学を卒業しました。でも、ここからが私とグリーン・リーヴスとのさらなる長い付き合いの始まりとなったとも言えます。私はOB(OG)となりながらも現役の団員たちと一緒に演奏会に出演したり、飲み会に加わったりと、なんと現在に至るまでその付き合いは続いてきたのです。

グリーン・リーヴスOB会が出来てからすでに50年が経ちました。その間、現役の団員が2人しかいなくなってしまったときもあったのですが、その2人があきらめずにまた少しずつ団員を増やしてくれたり、Ⅱ部が廃止された時にはⅠ部の学生がそのままリーヴスを引き継いで維持してくれたりして、幾多の困難を乗り越えてきたのでした。
しかしついに、2014年度は現役団員がすべて卒業していなくなってしまい、グリーン・リーヴスは明学から、サークルとして消滅してしまったのです。いま、グリーン・リーヴスは、OBしかいなくなってしまいましたが、それでも私にとっては人生の2/3以上の期間、かかわりあってきた大事なサークルです。なぜかというもう一つの理由は、多くの先輩や後輩、同期の気の置けない人との関係を結べてきたこと、そして伴侶を得たことですかね。

飛木かおる  (1977年社会学部卒業)

(写真…新入生歓迎合宿で長瀞に行った時の物です。昭和50年)