賀川豊彦とは

賀川豊彦は若き日、神戸のスラムに身を投じて貧しい人々の救済に専念しました。壮年時代には、労働組合運動、農民運動、協同組合運動、無産政党樹立運動に献身し、関東大震災が発生するや、東京にて、罹災者救済やセルツメント事業に力を尽くしました。
また生涯を通じて日本と世界にキリスト教の伝道を行い、戦後は伝道と著作のかたわら世界連邦運動を提唱、指導しました。
これらの諸活動を継続する間に宗教、哲学、経済、社会、文明批評、随筆、小説等の作品を多数発表しました。それらは、彼の死後「賀川豊彦全集」全24巻として刊行されています。
彼の事業は関西、関東を始め全国に亘り数多くの同志を組織して行われ、その運動は広範な規模において展開されました。

※写真提供:明治学院歴史資料館
【賀川豊彦記念松沢資料館資料より】


賀川豊彦略年譜

1888年(明治21年)0才7月10日(戸籍では12日)賀川純一と益栄(本名菅生かめ)の次男として神戸に生まれる。
1893年(明治26年)5才あいついで両親に死別、徳島に移る。
1901年(明治34年)13才肺結核の診断を受ける。
1902年(明治35年)14才宣教師C・A・ローガンに英語を学ぶ。
1904年(明治37年)16才宣教師H・W・マヤス博士より洗礼を受く。
1905年(明治38年)17才徳島中学校を卒業し、明治学院高等部神学予科に入学する。
1906年(明治39年)18才徳島毎日新聞に「世界平和論」を投稿、掲載される。
1908年(明治41年)20才「鳩の真似」(後の「死線を越えて」)の原稿を携えて島崎藤村を訪れる。
1909年(明治42年) 21才神戸の葺合新川に貧しい人々と一緒に住み、キリスト教伝道、隣保事業を行う。
1913年(大正2年)25才芝ハルと結婚。
1914年(大正3年)26才プリンストン神学校へ入学、プリンストン大学で聴講。ハルは横浜の共立女子神学校に入学。
1916年(大正5年)28才プリンストン神学校より神学学士号の学位をうける。
1917年(大正6年)29才アメリカから帰国し、再び神戸においてキリスト教伝道と社会事業をはじめる。
1918年(大正7年)30才友愛会に加わって、神戸地区の労働運動に参加し次第に関西一円の指導者となる。
1919年(大正8年)31才労働運動と並行して消費組合運動をおこし、大阪に購買組合を設立。
1920年(大正9年)32才小説「死線を越えて」を出版。
1921年(大正10年)33才川崎造船所、三菱造船所に労働争議がおこり、 賀川は参謀として活躍する。神戸購買組合を設立、イエスの友会を結成。
1922年(大正11年)34才「雲の柱」発刊。財団法人「神戸イエス団」 設立。日本農民組合創立。
1923年(大正12年)35才「イエスの友会」第1回修養会を御殿場東山荘にて開催。関東大震災救援のため東京に移り住み、各種の救援活動を行う。
1925年(大正14年)37才日本救癩協会(日本MTL)生る。イエスの友会全国大会において「百万人救霊運動」を開始することを宣言。大阪の労働者街に四貫島セツルメントを創設。
1926年(大正15年~昭和1年)38才東京学生消費組合を設立、「神の国運動」を開始、西宮に移る。
1927年(昭和2年)39才西宮瓦木村の自宅で、農民福音学校を開校。東京に江東消費組合を設立。
1928年(昭和3年)40才東京に中ノ郷質庫信用組合を設立。
1929年(昭和4年)41才東京市長掘切善次郎より社会局長就任を要請されたが辞退、嘱託となる。西宮より東京松沢村に移転。
1930年(昭和5年)42才御殿場農民福音学校高根学園開設
1931年(昭和6年)43才東京医療利用購買組合設立運動を開始する。(認可昭和7年)。松沢教会設立、松沢幼稚園を開園。
1933年(昭和8年)45才日本協同組合教育協会を設立、協同組合運動者の養成に尽力する。
1934年(昭和9年)46才東北饑饉救済に「親類運動」を起こし、子女を引取る。
1936年(昭和11年)48才江東消費組合で栄養食配給を開始。
1937年(昭和12年)49才「星座かるた」を考案発表。
1938年(昭和13年)50才財団法人「雲柱社」を設立し、初代理事長となる。
1940年(昭和15年)52才反戦論の件について渋谷憲兵隊に検挙され、18日間留置される。「雲の柱」廃刊。
1941年(昭和16年)53才平和使節として、アメリカにおもむき戦争防止のために尽力する。
1943年(昭和18年)55才反戦思想、社会主義思想の故をもって神戸相生橋警察署に留置される。
1945年(昭和20年)57才日本基督教団戦時救済委員会委員長として、戦災者の救護にあたる。東久邇内閣の参与になる。「マッカーサー総司令官に寄す」を読売報知に掲載。日本協同組合同盟会長となる。
1946年(昭和21年)58才食料対策審議会委員となる。また貴族院議員に勅選される。「キリスト新聞」創刊。新日本建設キリスト運動を宣言。
1947年(昭和22年)59才全国農民組合長に推される。
1950年(昭和25年)62才欧米伝道に出かける。
1952年(昭和27年)64才広島市で、世界連邦アジア会議が開かれ、その議長となる。
1955年(昭和30年)66才ノーベル平和賞候補にあげられる。
1958年(昭和33年)70才クアラ・ルンプーの国際協同組合同盟東南アジア会議に日本代表として出席。
1960年(昭和33年)71才4月23日東京上北沢の自宅にて召天。

著書

  • 『貧民心理の研究』(警醒社書店、1915年)
  • 『死線を越えて』(改造社、1920年)
  • 『地殻を破って』(福永書店、1920年)
  • 『主観経済の原理』(福永書店、1920年)
  • 『生存競争の哲学』(改造社、1922年)
  • 『空中征服』(改造社、1922年)
  • 『一粒の麦』(大日本雄辯會講談社、1931年)
  • 『人格社会主義の本質』(清流社、1949年)
  • 『賀川豊彦全集』(キリスト新聞社)

関連文献

  • 武藤富男『評伝賀川豊彦』キリスト新聞社、1981年。
  • 隅谷三喜男『賀川豊彦』(岩波書店 ISBN 4002602451 1995年)
  • マーク・ゲイン『ニッポン日記』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1998年。
  • 林啓介『賀川豊彦―阿波の偉人伝』阿波銀行、2000年。
  • 雨宮栄一『青春の賀川豊彦』新教出版社、2003年。
  • 雨宮栄一『貧しい人々と賀川豊彦』新教出版社、2005年。
  • 雨宮栄一『暗い谷間の賀川豊彦』新教出版社、2006年。
  • 滝川好夫『資本主義はどこへ行くのか』(PHP研究所 ISBN 978-4569705798 2009年1月) – 賀川豊彦の思想・経済学をベースに「道徳経済」を提唱している。