相模原支部鎌倉散策のご報告

                                 令和元年(2019)10月26日(土)12時20分~午後4時
        北鎌倉駅~円覚寺~東慶寺~浄智寺~長寿寺~建長寺~鶴岡八幡宮


             建長寺山門前にて(午後3時撮影)

天候に恵まれた10月26日(土)に支部行事として鎌倉散策を行いました。
北鎌倉駅前広場に参加者7名が集まり、浦上裕史支部長の挨拶の後、12時20分に先ずは鎌倉五山第二位の臨済宗円覚寺を訪れ、境内を一周散策した後、160段の石段を登り、北条貞時寄進の洪鐘(国宝)を見学、弁天堂横の茶屋でソクトクリームで小休止。最後に19の塔頭の一つである「松嶺院」の墓所を訪れ、往年のスター田中絹代と佐田啓二、作家の開口健、オウム真理教の犠牲となった坂本堤弁護士一家の墓を参拝しました。

次に円覚寺派松岡山東慶寺を拝観。昔は尼五山として太平寺・東慶寺・国恩寺・護法寺・禅法寺・禅明寺があったが、四つの尼寺は廃寺となって、駆け込み寺としての歴史を残す東慶寺のみが残っている。有名な「水月観音坐象」は特別拝観となっている。境内には、大きな銀杏の木があり、銀杏が沢山落ちたような跡が残されていた。奥には高見順・西田幾太郎・大松博文が眠っている墓がある。

次には、鎌倉五山第四位の臨済宗金宝山浄智寺へ。山門の前に鎌倉十井(じっせい)の一つ「甘露の井」がある。境内には、鎌倉七福神の一つ布袋尊が祀られており、正月は賑わう寺となっている。

次に行ったのは円覚寺派宝亀山長寿寺。足利尊氏の子、基氏が尊氏の菩提のため創建。境内には尊氏の毛髪を納めた宝篋印塔の墓と、束帯像を祀る堂がある。拝観は金・土・日のみのため私は初めて訪れましたが、秋の紅葉時に庭から眺める景色は見事だそうです。

北鎌倉駅から拝観する最後は、名刹の鎌倉五山第一位臨済宗建長派の大本山、巨福山建長寺興国禅寺(けんちん汁発祥の地)に到着。同日同時刻に行われた「東湘南支部総会」に参加された浦上裕史支部長が合流され、境内の散策を行った。開基は第五代執権北条時頼で、建長元年(1249)に着工、同5年竣工。我が国最初の禅寺で、千人を越える僧侶の塔頭49院を有していたが総て焼失した。江戸時代に再建復興した総門、三門、仏殿法堂などの建物が一直線上に並ぶ宋の禅宗様式の伽藍配置の面影は今も残り、七堂伽藍と塔頭十数院が広大な敷地に点在する。開山は、33歳で宋より来日した禅僧蘭渓道隆(大覚禅師)で、時あたかも摂家将軍九條頼経を追放し北条執権政治が確立されようとした頃であった。
創建当時のもので今でも寺に残っているのは、国宝の「洪鐘」と柏槇(びゃくしん:新日本名木百選名勝史跡で750年の年月を生きている)だけとか。
境内の一角に国家「君が代」の歌詞にも出てくる大きな「さざれ石」がありました。          
建長寺を出て、下りの巨福呂坂(こぶくろざか)を歩き一路鎌倉八幡宮へ。坂を下りきった所の八幡宮横門の手前に、別当を管理する僧侶が居住にしていたという二十五坊の僧舎跡の碑がある。最近の若い人は「つるおか はちまんぐう」と言うのが残念、正しくは「つるがおか」と”が”入る。祭神は、「源頼朝ですか」と答える人には歴史の勉強をしてほしいと思う。

境内を散策したが家族ずれの七五三参拝客で境内は賑わっていた。
境内を出て段葛を歩き鎌倉駅に向かう。
治承4年(1180)に源頼朝が、妻北条政子の安産と武家幕府の礎を固めることを祈願して、由比ヶ浜と鶴岡八幡宮を結ぶ1800mの表参道を造らせた。
二の鳥居の参道の道幅は5mあるが、参道終点の三の鳥居は2.3で、八幡宮に向かって参道が平行に見えるように遠近法を使っている。東側(右側)は幕府の本拠地で地盤が高く、西側は葛石が高く盛ってあり、東西南北から敵を守るための要塞として造られている。

二の鳥居を出て鎌倉駅近くの「サイゼリア」で懇親会を行った。かなり歩いたので、ビールの旨いこと、自分の歩数計では12863歩、8.4㎞になっていた。幸いにも好天に恵まれ楽しい一日でした。私は小学校3年生まで北鎌倉にいましたので、円覚寺の妙香池に亀を捕りに行き、お坊さんに追いかけられたり、自宅には托鉢のお坊さんがよく来たりしてた思い出があります。

今日のコースは11月半ば過ぎると紅葉がとても綺麗だと思います。皆さんと時には鎌倉も捨てたものではありませんよ。ぜひ次回は多くの同窓生が参加されることを期待したいと思います。
                                                     相模原支部副支部長 阿妻靖彦(68商科卒)