出場していた甥の菊地峻太朗にとって、学生生活最後の試合となりました。
3月に卒業して4月からは社会に出ます。
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2014年、甥は入学が決まった時、私の父菊地義雄が入居していた介護老人ホームを 訪れました。父はベッドの上で歌い始めたそうです。
「人の世の若き生命のあさぼらけ 学院の鐘は響きて われひとの胸うつところ
白金の丘に根深く 記念樹の立てるをみよや 緑葉は香ひあふれて 青年の思ひを伝ふ」
父は当時90歳、昨日のことは覚えていなくても、校歌は覚えていました。
祖父から孫への校歌の歌唱指導?でした。
父は1943年、明治学院専門学校在学中に学徒出陣となり、明治神宮外苑を行進しました。
そして1944年、戦争中に専門学校を繰り上げ卒業になりました。
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父は昭和の戦争中に学生時代を過ごしました。
私は昭和の平和な時代に落語研究会で落語三昧の学生生活でした。
甥は平成時代にアメリカンフットボール三昧で過ごしました。
時代は常に変わっていきます。
「心せよ学びの友よ 新しき時代は待てり もろともに遠く望みて
おのがじし道を開かむ 霄あらば霄を窮めむ 壌あらば壌にも活きむ」
2015年8月、父は92歳で亡くなりました。終戦後はサラリーマンとして働き、老後 は手品を趣味として楽しんでいました。
私も卒業後のサラリーマン生活もあと数年、まもなく老後の人生になります。
甥は、卒業してこれから社会人生活が始まります。
人生は決して平坦な道ではありませんが、卒業生の皆さんも校歌を歌いながら新しい 時代を生きていきましょう。そして校歌を後輩へと歌い継いでいきましょう。
「ああ行け 戦へ 雄々しかれ 眼さめよ 起てよ畏るるなかれ」
校歌の思い出を一つ
1977年4月首都大学野球リーグの応援に川崎球場へ行きました。相手は原辰徳君が 入学した東海大学、ラッキーセブンの校歌斉唱、歌い終わって応援団のリーダーが 「かっ飛ばせ!」と声を上げた時には東海大学の攻撃になっていました。
落語、寿限無風に言えば「あんまり校歌が長いんで、チェンジになっちゃった~」
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1979年社会学部社会学科卒業 菊地克之