コロナ禍の中で満足な学生生活を送れないでいる現役学生の皆さん、そして学校関係者の皆さんに心より同情申し上げます。
今まで投稿されているOBの方々は、それぞれの学生時代のことを題材にされております。私も約40年以上も前の自分の学生時代のことを書こうと思いましたが、少し趣を変えてあまり知られていない明治学院創立当時の一人の人物のことを述べようと思います。それは、ヘボン博士の後を継いで第二代総理(当時は総理と呼んだ)となった旧会津藩士の井深梶之助の事です。
早稲田は大隈重信、慶応は福沢諭吉が創立者である事はほとんどの日本人の良く知るところです。我らがヘボン博士も所謂ヘボン式ローマ字の発案者としてよく知られておりますが、知名度の点では前述の二人には及ばない事は認めざるを得ません。
しかしながら有名私大二校の第2代学長となると、二校のOB諸氏も直ぐには答えられないと思います。
でも、我が明治学院の第二代学長(正確には総理)井深梶之助はそうではありません。特に私のような福島県出身者には特別な存在で、実に尊敬に値する人物です。
井深は、幕末の嘉永七年(安政元年)に会津藩の家老の家に生まれ戊辰戦争の時は一歳足らずの14歳で白虎隊に入れなかったものの家老の父に従い新潟方面の戦場に出向き、実際に実弾射撃もしました。国境を破られた後は、鶴ヶ城の籠城戦を一か月戦い抜きました。敗戦後は一藩もろとも国元を追われ、一家は東京に出て、賊軍の汚名を着せられ極貧の暮らしを余儀なくされます。井深も色々な仕事を転々としながらも向学心に燃え、勉学に励みました。そしてキリスト教会の下僕として働きながら英語、神学、自然物理などブラウン先生から教わり、洗礼を受けます。この時「汝の敵を愛せよ」のキリスト教の教えと、武士道精神が融合したのだと思います。ヘボンやブラウンが、キリスト教に基づいた学校を開くにあたり井深も教授として参画します。そして、その人となりをヘボンに買われ第2代総理に指名されます。36歳の若さです。
「私の後を継いで、本学のかじ取りをするのは、梶之助だ」とヘボンに説得されたと伝わっています。
余談ですが、後にソニーの創業者の一人となる井深大は同じ旧会津藩井深家の流れを汲みます。
明治新政府は、薩長土肥の出身者で多くを占められていて旧会津藩出身の井深が総理を務めるキリスト教系の本学は、不当な教育行政を受けたものと思われます。しかしながら、会津人独特の我慢強さで学校運営に当たって今の繁栄の基礎を作りました。
そんな井深梶之助の銅像が、復元された旧会津藩藩校の日新館の敷地内に立っています。(写真参照)
是非、会津地方に旅行の折は訪ねられては如何でしょうか?
また、井深梶之助にまつわる資料コーナーも本学内にあります。私も、このコロナ禍が収まりましたら是非見学したいと思っています。平凡社からも星良一(郡山市在住)「井深梶之介伝」と言う本も出版されています。こちらも是非ご一読されて、本学の黎明期に思いもはせては如何でしょうか?
80年仏文科卒 石田享也