OB、OGの皆様、コロナ禍の中ご苦労されていることと思います。
今回は我がふるさとを紹介させて頂きます。
1976年4月、山口県の東部にある瀬戸内海に浮かぶ周防大島(正式名:屋代島)から東京へ着の身着のままで私は一人で上京しました。この年の7月に本土と周防大島を結ぶ「大島大橋」(1020m)が完成し、我が母が涙して喜びの電話をしてきたのを覚えています。
天候が悪化するとフエリーが行き来出来ず、橋が架かるのが島民の夢でしたので、余程に嬉しかったのだと思います。ちなみにこの時の山口2区選出の議員が佐藤栄作元首相で、島民に取っては神様、仏様だったようです。作曲家の星野哲郎も島出身者で、門下の北島三郎、水前寺清子はたびたび一緒に来島し、島民に歌声を聞かせていました。我が父の18番ももちろん北島三郎の「函館の女」でした。(星野哲郎記念館も出来ています)
周防大島は瀬戸内海では淡路島、小豆島に次いで3番目に大きな島で、600m級の山々が連なり平地が少なく、だんだん畑での「みかん作り」、漁業が盛んで、夏になると海水浴、魚釣りに本土からたくさんの人が今も来島しています。我が家もみかん作りの兼業農家で、父は農協に勤めみかん作りの指導をしていました。今はポピュラーになっている「モノレール」もいち早く導入し、急斜面のだんだん畑での作業効率を上げるべく取り入れていました。妻も子供たちも父が作るみかんが一番美味しいと言って買ったことがありませんでしたが、両親が高齢化するとともに作ることが出来なくなり、今は家の前で野菜を作り子供、孫たちに送ってくれています。釣りに関しては私が島に住んでいた時は、船で出れば鯵100尾という成果が出ていましたが、今は大物(ブリ、タイ、シーラ等)を求めた本土からの太公望が多いようです。もちろんどの防波堤でも季節に応じた魚が釣れています。
また、周防大島は人口の50%以上が65歳以上の高齢化の島として有名であり、私が上京した1976年には4万人を超えていた人口も、現在は1.6万人に減少し過疎化も大きな問題となっています。帰省するたびに空き家、空き地が増えており、母校(久賀高校)も統合されて今はありません。ここ数年来、役所、青年会、商工会などがIターン、Uターンのいろいろな企画を考えて、1年を通じて温暖な島への都会からの移住を推進する施策が取られており、お洒落な海沿いの喫茶店、豊富な柑橘類を使用したジャム屋、ハチミツ屋、ピザ屋など、都会から移住してきた若者もだんだんに増えてきています。
我が家のしばらく使用していない山地、畑および将来的には築年数は立っていますが現在両親が住んでいる家などを、島移住者に活用してもらうよう無償提供も視野に入れて今後検討していきたいと考えています。離れていると出来ることは限られますが、我が故郷の周防大島の活性化のために少しでも力になれるよう、田舎暮らしへの協力をしていきたいと考えています。
76C経済学部 石村和彦