「明治学院での思い出」とわたし

みなさんこんにちは、小野尚寿(おのひさとし)と申します。
 現在、私は、生まれ故郷の熊本で、熊本県聴覚障害者情報提供センターの所長の立場で、聴覚障害者福祉関係の仕事に携わっています。
 今回、突然大学時代から親しくしている1学年後輩の(大学同窓会顧問)新井さんから、「明治学院大学同窓会の原稿を書いてほしい」と頼まれて、軽い気持ちで引き受けてこの原稿を書くことになりました。よろしくお願いいたします。
 私は、80Wですので、1980年の4月に社会福祉学科に入学し、勉強よりもサークル活動に力を入れていたので(言い訳ですが)、成績は低空飛行でしたが、とても楽しい学生生活を送ることができ、また、周りの友人の協力のお陰で、84年の3月に無事卒業することができました。
 明学での4年間は、私にとって、生きていく上で、様々な面で役立つことを、たくさん身につけることができた4年間だったように思います。
 一つは、たくさんの先生方や先輩、友人に出会い・ふれあう中で、自分とは違う、人それぞれにいろいろな考え方や受け止め方、生き方があるということを身をもって体験することができ、視野を広めることができたと思います。
 今考えてみると、進学する前に、父が「地元の大学に行くくらいなら、県外(特に東京)の大学に行って、たくさんの友達を作って、学校の勉強だけでなく、それよりも人生勉強して来い」と言ってくれたのを、今更ながら思い出し、なるほどそうだったんだと天国の父に感謝の気持ちでいっぱいです。
 もう一つは、ヘボン明治学院初代総理が生涯貫いた精神、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(「マタイによる福音書」7章12節)を基にした明学の教育理念である”Do for Others(他者への貢献)”の精神が、4年間の明学のキャンパスライフのお陰で、気付かないうちに自然と多少なりとも私の内側に溶け込んでいて、今も脈々と私の心の中に生き続け、仕事や生活面でとても役立ってくれているように思います。
 サークル活動の一つは、1年の時から「手話サークルぽっけ」に入って活動していました。手話に特別興味があったわけではなかったのですが、仲のいい友達の誘いもあり、将来社会福祉関係の仕事に就いたときに、少しは役に立つだろうくらいの軽い気持ちでの入部でした。1年~2年の時は、手話学習の方は、週1回の学習会に参加したり、しなかったりで、熱心に活動していたわけではなかったのですが、サークルの飲み会の方は、毎回出席で、いつの間にか幹事役を任せられるようになり、別名、酒話(しゅわ)サークル(いわゆる飲み会)の会長と呼ばれていたみたいです。
3年の時に役員交代があり、次期会長候補の人が会長になるはずだったのですが、家庭の事情で急に大学を止めることになり、会長がなかなか決まらず、結局、私にお鉢が回ってきて、会長を引き受けることになりました。中学時代は野球、高校時代はラグビー部の体育会系でキャプテン等は経験していたのですが、文化系のサークルでの会長は初めての経験で、最初はどうやって進めていっていいのかわからず、戸惑いながら苦労したのを覚えています。
体育会系の場合、全てではないのですが、相手チームに対しての戦略を決め、各自の役割分担を決めて、みんながチームの勝利に向けて、協力して取り組むことが目標となります。極端な話、それぞれのメンバーが、(少し古いですが)松田聖子が好きだろうが、小泉今日子が好きだろうが、チームが勝利して、最終的には優勝すればいいわけです。しかし、文化系の手話サークルでは、サークルをどのように進めていくかの目的や活動方針を、それぞれのサークル員の意見を聞きながら、まとめていく必要があり、勝ち負けではない、みんなの意見の妥協点を見つけていく必要があります。最初は、みんなの意見を聞き過ぎて、サークルの方針をなかなか決めきれなかったり、会長がやらなければと一人で重荷を背負ったりと悩む時期もありました。
しかし、副会長や役員と話し合いを重ねる中で、会長や役員だけが担うのではなく、それぞれのメンバーが得意な分野を何か持っているので、その得意なことをそれぞれのメンバーが発揮できるような体制を作り上げていきましょうということになりました。
その時の経験で、みんなで話し合いを重ねること・メンバーを信頼して任せて委ねることの大切さを学ぶごとができ、そのことが、今の所長の仕事を行う上でも生かせているのではと思っています。
手話サークルの活動としては、週1回の学習会の他に、明学に在学中の聴覚障害学生が希望する授業の手話通訳とノートテイクを交代で行っていました。その中の一人は、関東聴覚障害者学生懇談会の会長をされていた方で、その方とは、よくけんか(私が聴覚障害者の理解が足りないことの原因がほとんど)もしましたが、聴覚障害者学生への情報保障の現状や聴覚障害者の困ることなどをいろいろ根気強く教えていただきました。今考えてみると、手話通訳と言えるようなレベルの技術にはほど遠く、申し訳ない気持ちになりますが、その時は、学生なりに一生懸命取り組んでいたと思います。その時の経験のお陰で、聴覚障害者や手話に対する理解を深めていくきっかけになり、今の仕事に繋がっていると思います。
個人的には、平成元年の第1回厚生労働大臣認定の手話通訳技能認定試験に合格し、「手話通訳士」の資格を取ることができ、また、今も聴覚障害者福祉関係の仕事を続けているので、当時の聴覚障害学生のみなさんには、少しばかりの罪滅ぼしができたかなと思っています。
また、今は大学内に学生サポートセンターがあり、きちんとした聴覚障害学生に対する手話通訳やノートテイクの派遣が行われていると聞いたので、嬉しく思っています。
もう一つのサークルは、「DOVE COMPANY」というテニスサークルで活動していました。このサークルは、私が2年の春にできた新しいサークルで、私より一つ上の3年の先輩たちが結成したものです。「今年の4月から活動を始めるので、新入生を勧誘する予定だが、2年が誰もいないとかっこつかないので、名前だけでいいので書いといてよ」と先輩に言われて、何のサークルかもわからないまま、名前を書いたのが始まりでした。しばらくは、名前を書いたことさえも忘れていたのですが、ヘボン館の前でたまたま先輩に会って、「1回くらい参加しなよ」と言われて、参加することとなり、その時初めて、このサークルがテニスのサークルだと知りました。
 テニスはやったことがなかったのですが、とにかく、全国各地から集まった先輩たちが個性的というか、魅力的な人たちばかりで、テニスをしに行くというより、練習が終わった後の食事や飲み会が本当に楽しくて、毎回参加するようになりました。
 週に1~2回の定期的な練習の他、春・夏合宿は、1週間ぐらい伊豆や山中湖に出かけたり、冬は、北海道、青森、新潟出身の先輩たちが居たのでスキー合宿に連れて行ってもらったリと、楽しい時間をみんなで過ごしたことを今でも思い出します。サークルなので、部室はなかったのですが、授業がない人はいつもヘボン館の前の「藤棚」に自然と集まって楽しい時間を過ごしていました。その後盛り上がれば、行ける人でよく目黒に飲み会に繰り出していました。今もあるがどうかわかりませんが、当時は携帯電話もなかったので、遅れてくる人のために、目黒駅の掲示板に「庄屋 6時 DOVE」とか書いて、連絡を取り合って店に飲みに行っていたことも懐かしく思い出します。
 今でも、DOVEで年代の近い人たちとは年に1回(最近はコロナで開けていない)は、東京で集まりを開き、つながりは続いています。
 最近では、少人数ですが、ゴルフや観光が好きなメンバーが集まって、年に1~2回ゴルフ合宿を行っていて、今年の11月には熊本で開催する予定で、とても楽しみにしているところです。DOVEのメンバーは、私にとっては、家族や兄弟みたいなもので、いろいろなことも素直に相談できるし、会うだけで元気をもらえる大切な存在となっています。これからも、良い関係を続けていきたいと考えています。
 ゼミについてですが、河合克義先生に「地域福祉」のゼミで、3年~4年の2年間お世話になりました。河合先生は、フランスの留学研修から帰京されたばかりの年で、私と同学年のゼミ生は3人(少数精鋭?)と少なかったのですが、和気あいあいとした雰囲気のなかで、ゼミの時間は、いつも贅沢にも先生ご自慢の手製のコーヒーをいただきながらのスタートでした。ゼミの最初の授業は、エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』を読んで、各自が自分の担当のところを発表する方法で進められました。私の番になり、私が発表を終えると、先生が「本に書いてある内容は、わかりました。ところで、それに対するあなたの考えを聞かせてください。」と言われたのですが、私は黙ったまま何も答えることができませんでした。
 すると、先生が、「高校までの勉強は、教科書に書いてあることを覚えることが主だったかもしれないが、これからは、本に書いてあることや人の意見に対して、あなたがそれをどう受け止め・どう考えていくのかがとても大切です。自分自身の考えを持てるようになってください。それが大学での勉強です。」みたいなことを言われ、今までの勉強のやり方ではダメなんだとつくづく気付かせていただきました。
 ゼミの授業は、教授室の中だけではなく、時には大学を飛び出して、3大ドヤ街の山谷、横浜の寿町などにも現場実習で連れて行っていただきました。特に、寿町の実習では、昼間は寿町のドヤ街での実習、夜は駅の向こう隣の華やかな横浜元町や中華街で夕食を食べましたが、日本の表裏の縮図を見たようで、悶々とした夜を過ごしたことを覚えています。
 その他、「生命尊重行政」を目指し、全国初の老人医療費無料化を実現した岩手県の旧沢内村にも(私が貧乏学生だったので鞄持ちという名目で先生の多分自腹だと思うのですが)
連れって行っていただきました。机の上だけでなく、たくさんの地域の現場に実際に行って、目で見て何かを感じて考えてほしいとの先生の親心だったように思います。
 2年間を通して、先生に教えていただいた中で最も大切にしていることは、「住民主体の原則」という考え方で、今も、私が福祉の仕事を進めていく上での、指針とさせていただいています。
地域福祉は、その地域に住んでいる人が主役であり、周りの人がいいと思うことの押しつけではなく、その人たちがどうしたいのか?何を望んでいるかをまず尊重して進めていくことがとても大切だと思っています。
私は、先生から教えていただいた「住民主体の原則」を私自身の仕事に当てはめて『聴覚障害者主体の原則』と置き換えて、熊本の聴覚障害者が主体(主役)で、常に聴覚障害者の立場に立って、福祉を進めてきたと思うし、これからもそうでありたいと考えています。
しかし、言うことは簡単ですが、この聴覚障害者の立場に立つということはとても難しいことだとつくづく思います。いくら聴覚障害者のためと思ってやったことでも、おせっかいになったり、押しつけになったり、あるいはまた、社会参加の機会を奪うことに繋がるかもしれません。わたし自身も、気付かないところで、今まで幾度となく失敗を繰り返して、聴覚障害者や周りの方々に迷惑をかけてきたのかもしれません。
河合先生とは、6月の関東出張の際に、久しぶりにお会いできる予定ですので、楽しみにしております。その折りにでも、先生に今一度、アドバイスなどいただきたければ、ありがたいと考えております。
最後に、わたしがなぜ明治学院大学の社会福祉学科に入学するようになったのかを、自分なりに振り返ってみたいと思います。
わたしが生まれたのは、昭和34年4月26日。以前、父に私の命名の由来を聞いたところ、私が生まれた年の4月10日に今の上皇ご夫妻(当時の皇太子ご夫妻)がご成婚なさったことと、私の誕生日が昭和天皇の誕生日4月29日に近いということで、おめでたいことが2つ重なったので、尚(なお)寿(めでたい)と名付けてそうです。父や家族が心を込めて考えてくれた名前のお陰かもしれませんが、わたし自身、家族をはじめ、友達や様々な方との素晴らしい出会いや機会にとても恵まれているなと思います。その時は偶然のように思えることでも、今思うとその時その時で必要な方々との出会いや機会があり、わたし自身の足りない面を、実はその場その場で、今までたくさんの方々に、支え・補い・育てていただいたんだなあとつくづく気づかされます。
私は、(自分で言うのもなんですが)小さいころからスポーツが得意で、小中学校の時はピッチャーやショートを守り、野球少年として活躍していました。今でも小中学校の同窓会では、「小野君は体育の先生になると思っていた」とよく言われます。
高校に入ってからは、野球を続けようか迷ったのですが、九州学院という野球の強い学校(自慢ですが、ヤクルトの村上も同じ高校)でレギュラーは難しそうだし、3つ上の兄がラグビー部だった関係で勧誘を受けたので、ラグビー部に入部しました。1年生でレギュラーになり、次第にラグビーに夢中になっていきました。大学は、先輩からラグビーのスポーツ推薦を薦められていたので、そのつもりでラグビーを頑張っていましたが、試合で2回も複雑骨折をしてしまい、ラグビーで大学に行くことを諦めざるを得ませんでした。
そんな時、たまたま友達の誘いでレオクラブ(ライオンズクラブ内の学生組織)に入ることになり、福祉施設の慰問に参加させてもらうことが度々ありました。そのような活動をする中で、自分が少しでも人の役に立てることの喜びを経験することができ、福祉の仕事は自分に向いているように思えたので、それがきっかけで、大学は社会福祉関係の学科に行きたいと思うようになったというわけです。
今あらためて考えてみると、私が「少しでも人の役に立てることが喜び」という思いと、
明治学院の教育理念である”Do for Others”(他者への貢献)”がぴったりシンクロしているように思えてきました。わたしが明治学院大学に入学して4年間学んだことは、けっして偶然ではなく、必然だったのかもしれません。
明治学院大学に通えて、本当に良かったと思います。明学ありがとう!
今回原稿の依頼が来たときは、正直面倒くさいなという思いもありましたが、原稿を書き終えた今は、つたない文章でわかりにくいかもしれませんが、わたし自身にとっては、今までの自分を顧みる良い機会をいただいたのではと思います。ありがとうございました。
今後も、いろいろな方々との素晴らしい出会いを大切にし、見えるところ、見えないところで、わたしを支えていただいている方々への感謝の気持ちを忘れずに、毎日の日々を楽しく過ごしていきたいと考えています。

80年社会学部社会福祉学科入学 小野 尚寿(おのひさとし)