私が応援団に入団した77年の頃、とある週間雑誌で「嗚呼、花の応援団」と言う漫画が連載されていました。ハチャメチャな内容でしたが、当時、白金の高校生だった私は、その漫画に完全に感化されていたのです。
毎日、教室の窓から外を眺めていると、明らかに応援団とおぼしき人が歩いていました。
坊主カットに長ランを着て、颯爽と歩いていたのです。私はクラスの仲間に言いました。
「もし、大学に進めたら応援団に入る」と。みんなはとても驚くと共に失笑しました。
当時、白金は、明治学院高校とは言え、明治学院大学へ容易に進学できるわけではなかったのです。
明治学院高校に入学すれば、大学に進学できると思っていた私は、甘かったです。
勉強が好きではなかった私には進学できる自信はありませんでしたが、何とか補欠で合格しました。
補欠とは二部でした。
同級生との約束通りに「応援団に入る」と母に話すと、お父さんの了解を得る様に諭されました。
母は良い事だとけっして思っていなかったと思います。
私の父はとても厳しい人で、18歳になっても父には敬語でしか話しができませんでした。
ある日、父の手伝いの車の中でおっかなびっくり話をしました。すると父は、四年間絶対に続けるのなら許すと言ったのです。
二部の入学式は夜でした。チャペルでの式が終わって外に出ると、キャンパスは静まりかえっていました。
勧誘のための場所割りの白い線だけが残っていましたが、声をかけてくる先輩は1人もいませんでした。
あぁ、「二部の学生は勧誘の対象ではないのだなー」と、少し寂しかった記憶があります。
とは言え、そこは白金出身です。応援団の部屋がどこにあるかは分かっていましたので、翌日、勇気をふりしぼってドアをノックしました。ドアが開いて出てきたのは、何と私が毎日憧れて、見ていた人でした。笑顔で、「何か用かー?」そう言われた記憶があります。
団室に入り、説明を聞いて、私は入団届に母印を押しました。それからの四年間は皆さんがご推察の通りです。
父親との約束もあり、途中でやめるわけにはいきませんでした。
応援団にいたお陰もあり、四年で卒業し、事務機メーカーの営業に就職でき、国内の何か所かを転勤しました。
昨年、58歳になり、6月で早期定年退職を選択しました。36年余の永きに渡りサラリーマンを全うできたのも応援団で理不尽に?鍛えて頂いたお陰だと思っています。
最後の勤務地は札幌でしたので、退職後は、妻の了解を得て、単身で北海道の牧場で働いていますが、今までと違い、動物や自然とのふれあいがあり、楽しい、おもしろい仕事です。
たまに、横浜の実家に帰った時、同期や先輩後輩と会えば、青春時代が話題になります。
明治学院大学の4年間、思い出の多い、内容の濃い学生生活でした。
内容の濃いというのは【嗚呼、花の応援団】という事ではないです。一部、当てはまる事はありますが。
廣澤雅一(81年社会学科卒)