1975年法学部法律学科入学
本名 竹村晴彦
40年前のキャンパスを思う。未だ学生運動の名残があり、連日ヘルメットにマスクの面々が。100番教室では、教授が乱入して来た学生に縛り上げられたり、試験の日に登校するとバリケードで入れず、レポートに切り替わったりもした。企業爆破なんて事件の犯人もいましたね。政治に関わる熱い風潮に反して、四無主義なんてのも流行り両極だったのかな。
私はと言えば、ノンポリと言える立ち位置だった。只、何時も世の中に危機感を感じていた。それは演劇との関わりの中で昇華されて行った。当時は、アンダーグランド全盛、新劇もまだまだ元気な時代。ある種のエネルギーに溢れ、とにかく熱かった。演劇の先輩達は、人種が異なると思えるぐらい個性的な人達ばかりで、毎日が刺激の連続。少しでもついていける様に、理解できる様に多くの情報や、知識が必要になった。今では、飲酒も禁止だが当時は、根性酒が定番。俺の次ぐ酒が飲めないのか!?と、行けば、ベロベロへべになるまで、、。明け方まで演劇論に終止した。そんな中で一生をかけて向き合う価値があるものとして捉える様になった。演劇とは常に世の中に対して問題提起があり、それに対してどう考えどう向き合うのか?自分が発信する側に立ち行きて行こうという決意が確立した4年間でした。
やがて卒業。皆社会人となっていく中、私は無謀にも役者の道を選択した。夢は膨らみ、自らのエネルギーの大半を注ぎ込んだ。
劇団青俳。当時、岡田英次、木村功、石橋蓮司、緑魔子、蟹江敬三、らが所属。蜷川幸雄等も関係があり、危険な香りに満ちていた。然し、やがて劇団は倒産。映画、テレビ、舞台、とのご縁が生まれていく事となる。思い出深いものに、黒澤明監督、「夢」、「まあだだよ」、佐藤純彌監督「敦煌」、等が有る。もう少しで中堅にさしかかれるかという辺り。そこで大転機が訪れた。
それは、1995年1月。京都にて「雲霧仁左衛門」撮影中突然訪れた。
実は両親共に広島被爆者だ。特に母は爆心から2キロで被爆。周りの殆どが、学友も皆他界した。数日当て所もなく素足で彷徨ったという。その影響でか、上の兄弟2人は淘汰され、姉は訳の分からん難病と向き合い健康とは程遠い。私はと言えば生来の片腎症。オマケにその一つが、奇形水腎と来た。ご丁寧にそこを破裂させるという厄介な事故となってしまったのだ。
役者は継続不可。4ヶ月を越す入院、なんども手術を繰り返し、やっと人工膀胱も外れた。。さーてこの先どう生きて行くのか?なんの保証もない中で、何とまた無謀な決断を下したのだ。数年だぶって活動していたが、木版画作家になる!夢は、再び継続されたのだ。今度は、仕事を待つ必要もない。脚本も、演出も、出演も、成功も失敗も全部自分の責任。孤独な制作と向き合いながら、精神の高揚を感じた。やがて、木版に限らず、絵画、ミクストメディア、、、。手法は、限定しないと決めた。今の世の中が抱える山ほどの課題を肌で感じ、それを自分のフィルターを通して表す。最早、私にとって、好きだから描くのではない。綺麗な花をそのまま描くのではない。この当たり前の様に一見すぎて行く毎日が、当たり前ではない、一つ歯車が狂えば、一瞬で消えるこの命の愛おしさ、輝き、一瞬の揺らぎを描き留めたいのだ。
もう事故から25年が過ぎた。幸いにして、事故の前よりも健康を獲得できた。これも有る物との出会いがあるのだが、自然界に感謝をして、命を燃焼して行きたい。
「今日は、残りの人生始まりの日。」今日から心新たに、新しい道に踏み出そう。人生は素晴らしい。全てのものに感謝をして、励んで行きたい!
竹村健
ホームページ http://takemura.skr.jp
メール ken.takemura1956@gmail.com
個展予定
2019年12月4日?9日 静岡松坂屋 美術画廊 個展