1960年、高校2年生の私は銀座や米軍基地でジャズドラムを演奏していました。
ドラムを始めたのは中学生の頃で、高校生の兄が吹奏楽部の仲間とジャズを演奏していたのがきっかけです。兄は18人編成のフルバンドでトランペットを吹いていましたが、私が興味を抱いたのはバンドのドラムです。ドラマーは和太鼓などとは全然違う奏法で、曲の最初から終わりまで正確にリズムを刻み、決められた箇所でアクセントやソロを入れ、曲を盛り上げます。見ているだけで体がゾクゾクするのです。ある日、バンドのドラマーが「ドラムはスポーツと同じで練習すると誰でも叩けるよ」と声をかけてくれ、叩き方の基本を教えてくれました。それ以来私は毎日スティックを手から離さず教えられた基本練習を続けました。
そんなある日、そのドラマーが「本物のジャズを見せてあげる」と、自分が出演している銀座のクラブに中学生の私を連れて行ってくれました。
銀座の泰明小学校近くのそのクラブは、後で判ったのですが、銀座でも有数の超一流ナイトクラブでした。先輩が見せたかったのは先輩のバンドとは別のクラブの看板バンドで、トランペットが福原彰、ピアノが菅野邦彦、ドラムが五十嵐武要などが参加している「高見健三とミッドナイトサウンズ」というグループでした。その演奏はまだジャズの初歩の初歩しか知らない私が聞いても魂が揺さぶられ身体が振るえるほどのものでした。これも後で判ったのですが、このバンドは当時日本のトップクラスのジャズメンだけを集め編成していた有名なバンドだったのです。
私は生まれて初めて、しかも間近に本物のジャズに触れ魅了され興奮しました。そして、これ以降私はジャズのとりこになったのです。
何回かそのクラブに見学に行っている内に、高見さんのバンドのマネージャーから「YOUはキーガ(バンド用語で〝楽器〟のこと)何やっているの?」と、聞かれたので「ドラムを勉強中です」と答えると「コンガとかボンゴぐらいは叩けるだろう。ちょっと叩いてみて」と、あろうことか高見さんのバンドで一曲叩かされました。するとそのマネージャーは「来週の土曜日空いている?横田の仕事やってくれる?」と矢継ぎ早に聞いてきました。私はいきなりの仕事の話にびっくりし、何が何やら分からず呆然としていたように思います。その時何と答えたかは今でもまだ思い出せません。しかし、結局これが私の初めての音楽演奏の仕事となりました。
その後も何回か座間、横田、立川、横須賀などの米軍基地に行きましたが、中3の夏には高校入試が近づいて来たので演奏活動を一切止めました。
しかし、明治学院高校入学間も無く再びマネージャーから連絡があり「今度は銀座の別のクラブでのドラムの仕事だけどやってみない?」との誘いでした。今までドラムの仕事はやったことがなかったので恐々挑戦してみようと思い一か月間だけという条件で引き受けました。
ドラムの仕事は以前のコンガやボンゴとは全然違い勘だけでは演奏できません。譜面が正確に読め、曲の構成が良く分かっていないと他の楽器と合わせて演奏できないのです。最初はやっている内に覚えると高をくくっていたのですが甘さがすぐに露見しました。前奏を聴いただけで曲のテンポ、リズム、拍子、ブラッシを使うかスティックを使うか等々判らずにマゴマゴの連続です。この時ほど自分の力量不足と未熟さに悲哀を感じたことはありません。
そんなある晩、立教大学出身のバンドのピアニストが、曲が始まる前に小声で、曲の構成やリズムや拍子を教えてくれたのです。その後も新しい曲の時は必ず耳打ちしてくれ、お陰で私は恥をかく回数が激減し何とか仕事が続けられました。今でもそのピアニストには感謝しています。
何とか一か月間のドラム初仕事が終わった後、再びドラムの仕事を頼まれました。少し自信がついた私は基地の仕事やドラムのトラ(エキストラの略で欠員時の補充役)の仕事をしばらく続けました。この間、私の演奏技量も徐々にですが上達したように思います。また、幸運にも一流プレーヤーたちとの交代バンドで演奏する機会も増え、私は大いに刺激を受けました。この時期一旦は諦めかけたドラムへの意欲が再び芽生えた気がします。
しかし一方では、この時期私は大学入試の準備に入らなくてはなりませんでした。私は高校入学前から国立大を目指して勉強も頑張って来ました。しかし、このころから私の学力は低下し始めていたのです。高校3年になっても成績は思うように上がらず、結局国立は無理ということになり、私は外部の私立大学を受験することにしました。しかし、これも結果は不合格。
最終的に、私は外部学生として明治学院大学を受験し経済学部に入学することになりました。
入学当初、私の心境は「心ここにあらず」でした。大学入試失敗のわだかまりのようなモヤモヤがずっと残っていたのです。しかし、山中湖のオリエンテーションから、あの白金のキャンパスに通うようになってから私の心境に変化が出てきました。毎日学校に行くのが楽しいのです。授業に出るのが楽しいのです。友達と一緒に学校に居るのが楽しくてしょうがないのです。この友達と一緒に過ごしていたい、という気持ちは卒業まで変わりませんでした。
この学校はマンモス大学ではありません。そのせいか白金キャンパスは不思議な魅力を醸し出しておりました。キャンパスを歩いていると必ず友人知人に出会います。天気の良い日に一人ベンチに座っているとたちまち通りすがりの顔見知りが集まり話が盛り上がります。
私は入学後直ぐにLMS(ライト・ミュージック・ソサイティ)ジャズバンド(ブルーマイナーズ)に入部しました。このグループには鎌倉を中心に湘南方面から通学している人が多く、私達ジャズグループはこの湘南会のダンスパーティーに頻繁に呼んでもらい演奏をしました。また、この湘南会のメンバーは私たちが都内のダンスパーティーやコンサートに出演する時も必ずと言って良いほど顔を出してくれました。このころ音楽好きで良く私たちの演奏を聴きに来てくれた英文科の学生の一人が現在の私の妻です。
当時ブルーマイナーズは放送研究会など周りの方々の支援で人気絶頂の「白木秀雄クインテット」や「北村英治クインテット」を呼んでもらいコンサート等で共演の機会を作ってもらったり、ラジオ出演等を実現してもらったりしました。私個人も先輩の計らいで銀座のジャズギャラリー等で一流プレーヤーと同じステージでドラムを叩かせてもらう等貴重な経験をさせて頂きました。
プロのバンドでは出演前に練習など一切やりません。新曲でも全てぶっつけ本番です。しかし、学生バンドは練習を沢山やります。これが私にはとても良い勉強になりました。
楽しい大学での演奏活動でしたが、3年生の終わりごろから私の今まで抱いていたプロドラマーの夢が揺らいできました。将来家庭を持ち経済的に安定するにはサラリーマンの道を選ぶべきなのか?と悩み始めていたのです。
結局大学4年の夏まで悩み続け、一大決心をして大学の就職課を訪ね、相談したところ「今まで一体何をしていた」と呆れられましたが、2社ほど紹介いただきました。首尾よく試験が通り内定を貰ったものの入社の決断がつかず、悩んだ末独断で内定辞退をしてしまいました。就職課からは当然のことこっぴどく叱られました。
その後も就職先は決まらず、ついに年が明け卒業前の2月になりました。いよいよ就職浪人かと諦めかけていた時、LMSの同級生から、自分の内定先のホテルに欠員が出たので応募したらどうか、と何ともありがたい電話がありました。私は藁をもつかむ思いで面接に行きました。面接では就職活動が遅れた理由を聞かれたので、正直に音楽の世界と迷っていたと話しました。タイミングが良かったせいか筆記試験は免除で面接当日内定を頂きました。私はホッとすると同時に学友のありがたみを噛みしめ、感謝の念を抱きました。
明学在学中、私は多くの素晴らしい学友達に巡り会いお陰で意義ある楽しい学生生活を送ることが出来たばかりか、最後の最後まで学友に助けられました。ジャズと明学と学友は私の学生生活の全てであり、私の一生の宝です。
あとがき・・・・・・・
卒業後私はドラマーの道からそれまで想像もしたことのなかったホテルマンの道を進むことになりました。
偶然に近い状況ですべり込み入社したホテルでは、語学の問題など多々苦労が待ち受けていました。また、同僚先輩の多くはホテルの専門知識を出身大学で学んだり、中には米国の大学でホテル経営学を学んでいたり、つわものが多くいました。そうした人たちに置いて行かれないよう私も懸命に努力をしました。そして私はその後40年以上ホテルマン生活を送ることになったのです。途中私が辞めずに続けられたのは、ホテルの仕事がジャズ同様好きだったからだと思います。
ホテルマン時代には現場の仕事からマネジメントの仕事、海外勤務、日本の北から南までの様々なホテルの運営や経営を経験することが出来ました。九州の私の在職していたホテルで米国のコーネル大学のホテル経営学部の教授を招聘し公開講座を開いたことがあります。その折、ホテルマーケティングの手法の問題で一人の教授と意気投合し、私の発想をコーネル大学の学生に客員教授として講義して欲しいと招待されました。しかし、残念ながら私には現場を離れられない事情があり丁重に辞退いたしました。その折り、教授から「あなたはどこでホスピタりティーを学んだのですか」と聞かれ「出身大学の明治学院です」と答えると教授は「どんなコースで習ったのですか」と聞くので、「多くの学生は礼拝などを通して自然に学んでいます」と苦し紛れに答えました。その時思ったのですが、明学にホテル経営学部や観光学部があったらコーネル大学に負けない素晴らしい人材を輩出できるのにと。
私はホテルマンの現役を退いた後、しばらく都内の大学の客員教授やホテル経営コンサルタントの仕事に携わっておりました。そして、8年ほど前にジャズバンド「ザ・ブルートレインズ」を結成し都内のホテルのロビーラウンジで演奏を再開しておりました。しかし、残念ながらこのコロナ禍で3年前から休眠状態です。しかし、私のジャズへの思いは79歳の現在も60余年前といささかも変わっていません。
66年度経済学部経済学科卒 海老原 靖也(えびはら やすなり)