戸塚の「横浜校舎」が開校したのは1985年(昭和60年)です。私は1980年に卒業していますので、通った経験はありません。ただ、この「戸塚」という響きには学生時代の懐かしい思い出があります。1970年代後半、戸塚校舎建設の話が広まっておりました。土地の買収・建築等に必要な資金調達の為、特に運動部が使用していたグラウンド、その他の土地や施設を売却するという大きな問題に直面していました。
私自身、体育会の軟式庭球部(現:ソフトテニス部)に所属しており、使用していたテニスコートが都ホテルの向かい側に1面、国道1号線を渡った奥に1面(今はマンションです)、それにリーグ戦合宿で使用していた東村山の合宿所のコートが全て担保、あるいは売却の対象になっていました。勿論、軟式テニス部だけではなく、グランドを使用していた硬式テニス部・ラグビー部・サッカー部・射撃部・自動車部等も影響を受ける事態となっていました。
当時の体育会執行部の委員長が、76年度生で同期の太田君でした。その執行部を中心に学校側に対し、体育会系運動部の力を結集させ、活動の為の「代替地」を要求するなど、折衝を続けていました。なかなか意見が通らず、良い回答が得られない状況に、その太田委員長が何と『ハンガーストライキ』を敢行したのです。若さゆえの行動だったと思いますが、会うたびに青白い顔をし「やつれて」行く仲間を頼もしく感じたものです。ただ、その熱い思いや行動も、卒業と同時に世代も入れ替わり、「戸塚計画」は実行されたのであります。
体育会ソフトテニス部で主催する年1回の現役との交流戦を、横浜校舎内のテニスコートで開催しています。昨年11月に伺った際、戸塚のグランドを目にしました。緑鮮やかな「ヘボンフィールド」でトレーニングしている運動部の学生を見て、恵まれた環境で活動できるのを羨ましくも、また嬉しくも感じました。昨年、横浜校舎が開校30年を迎え、改めて月日が経つのを早く感じ、併せて、体育会執行部太田委員長の、あの痩せ細った顔がまぶたに浮かんだ、そんなひと時でした。
運営委員 日比野信也 (1980年 経済学部商学科卒)
(体育会ソフトテニス部OB会 会長)