1969年春、鳥取の田舎から上京して、大学生活をスタートした場所は港区西麻布1丁目で、日比谷線の六本木駅、広尾寄りの出口を出て3分くらいのところでした。六本木通りは芸能人の姿も見かける賑やかな通りでしたが、通りから少し入ると木造家屋が立ち並ぶ密集した、人通りの少ない住宅街でした。
大家さんに「明治学院大学に行くにはどう行くのが一番便利か」聞いたところ、都電で墓地下(青山)か又は霞町という電停から終点の泉岳寺まで行くルートを勧められました。西麻布と六本木の一部は以前は霞町という地名だった様で、私は西麻布よりも霞町という響きの方が好きでした。タクシーに乗った時は「霞町」と言ったものですが、タクシーの運転手は99%分かっていました。
墓地下か霞町を発って、広尾、天現寺橋、古川橋、魚籃坂下を経て、泉岳寺までは20分くらい要したと思います。座席は硬い、動きも硬い、とても心地よいものではありませんでしたが、行き交う車を押しのけて走行するのは痛快でした。
卒業後、故郷鳥取に帰りましたが、ある時、TVドラマを見ていたら、魚籃坂に犯人がいるという話が出てきました。「東京に住んでいる人でも知らない魚籃坂を自分はどのあたりか分かっている」と優越感を覚えたものです。
魚籃坂下は国道1号線(桜田通り)に面し、麻布通りが交わる近く、南北線の白金高輪の駅の近くです。この魚籃坂というのが距離200m程度に対して10m以上も上るという坂で、下から見上げると壁の様に見えたものです。こんな急坂を路面電車が登れるのかと思いましたが、登りました。怖いのは帰路の下りの時で、こんな急坂を下って、大丈夫かと思っていましたが、ブレーキの金属音を響かせながらゆっくりと下って行くのです。ブレーキが摩耗して急に効かなくなった時、どうすれば良いか、余分な心配をしました。
魚籃坂の上からは伊皿子坂を下り、泉岳寺に着きます。私は忠臣蔵が大好きで、一時は四十七士の名前を30人は言える時もありました。まさか大学生活で泉岳寺に縁が持てるとは思ってなく、嬉しくて早速、親への手紙には泉岳寺を満喫した事を書きました。泉岳寺から大学までは10分ほどの距離でしたが、都電を下車して、大学へ向かう人は一人もなく、「誰か綺麗な同級生でもいれば車中で話ができるのに」と思ったものでした。
1年間馴染んだこの都電も1970年の春には廃止になりました。1960年代、都電が次々と廃止され、当時、都内で運行していたのは、この「泉岳寺〜霞町〜信濃町」線と荒川線だけです。最後に廃止された路線で通学したというのがとても良い思い出です。
明治学院に学んだ諸先輩は都電で通学されていた方も多いと思いますが、私が「都電で通学した最後の明治学院の学生」かなあと思っています。
運営委員 徳沢幸人(1973年度法学卒 應援團)