昨年の晩秋にフランスのLyonを訪ねた。市街は北に向かって、左側から旧市街、ソーヌ川、プレスキル(ほとんど島の意味)、ローヌ川、新市街に分かれる。約19年前(世界遺産登録前年)に一泊してスピード通過した街であったが、メリーゴーランドとカールトンホテル以外、当時の街並みの記憶はことごとく薄れてしまっていた。この街を選んだのは、フランス人が一番住みたい都市であることに加え、ルネッサンス以後のイタリアに影響された食文化に魅かれたことと繊維の街として名を馳せてきたことが挙げられる。そして、旧市街の丘の上にそびえる「Basilique Notre-Dame de Fourviere」を訪れることが別の理由でもあった。想像通り、Fourviereは限りなく美しかった。
プレスキルには、織物歴史博物館と装飾美術館(Musee des Tissues et Musee des Arts Decoratifs) 、リヨン美術館(Musee des Beaux-Arts de Lyon)があり作品に堪能し、貴族文化の一端を覗けた気がする。また、旧市街の建物の中にある通路(トラブール)は観光の目玉であり、繊維製品が雨に濡れないように造られた等の説がある。要は人目も避けられるという点で、そうしたい人にはとても便利な通路である。8日間の滞在中に日帰りでAvignonへ行き、「Musee du Petit Palais」でボッティチェリ作の絵画「聖母子」を鑑た。アヴィニョンの橋の上からクルージングでお馴染みの雄大なローヌ川を眺め、暫く河岸の深まり行く秋を楽しんで豊かな気持ちになったことを想い出す。
日常をLyonへ移し、午前に一ヵ所、午後に一ヵ所という超スロー・リビングな旅行になった。
日本人観光客は余り見かけず、中国人の喧騒も聞かずに済んだことはほぼ僥倖に近い。ホテルで出会った旅人は、スイス人、ドイツ人、フランス東北部の人たちがほとんどであった。しかし、初日の朝食時に、ニース出身で年の頃50代の婦人が隣のテーブルから〝あと20年で地球が終わる″と話しかけてきたので、うっかり反応してしまうミスを犯してしまった。明らかにbigoteであった。食事を終えた時、受付の人が謝罪に来てくれた。これも旅の洗礼として受け止めることにした。
気になったのは、滞在中のホテル斜め前のベンチ横で毎日朝から夕方まで30代と思しきコート姿のRomaの女性が物乞いをして立っていたこと。Lyonに詳しい人の話によると、彼女たちは、朝どこかで打ち合わせてから、それぞれ持ち場へ行き、その日の稼ぎを夕方に持ち帰るらしい。ふ~む。したたかである。因みに私は日本製のど飴一個しかあげなかった。セーフ!
レストランはBouchon(地元伝統料理を出す食堂)が多い。ミシュランが星をつけたがらないので有名。伝統の郷土料理にトライしてみて納得した。所謂洗練されたソースベースのフレンチとは少し違っていた。魚料理のクネル、ブレス鳥、リヨンサラダ、ハム・ソーセージ等々。クネルはハンペンのようで、懐かしい味覚であった。時々Paulのパンでおなかの調整を試みたが、安価で美味しいので、なかなか胃が休まらなかった。驚いたのは、多くのフレンチの巨匠が若い頃にLyonを出発点としていることである。ポール・ボキューズの常設マルシェやローヌ川沿い非常設マルシェでは豊富な食材が販売されていてワクワク感で一杯になる。気分が高揚して旅人であることを忘れ、ジャムやチーズやパテを何種類も欲しくなる。やはり購入しておくべきであったと帰国してから後悔した。
そして、仕上げはデザート。Bouilletは日本に進出しているが、Bernachonにはガトー・プレジダン(チョコレートケーキ)があり舌鼓を打つこと間違いなし。ジスカール・デスタン元大統領も気に入ったらしい。楽しかったのは、クサン・デゥ・リヨン。まるで和菓子!素敵な内外装のGrand café des Negociantsもお勧めしたいカフェである。
再会したリヨネーズは、パリジェンヌのようによそよそしくない。さりげなく気高い文化の香りを発散することのみならず、胃袋文化の伝達にも勝れ、つつましく優美であった。リヨネーズがさらに身近になった。
ヘボン経済人会代表 森田 則行(1975年 商学科卒)